創業 初代川上末次郎
創業の頃
巻葉屋分隣堂は、初代川上末次郎が大正15年6月7日創業しました。記録では、父の亀之助が経営していた川上商店(和菓子製造、砂糖、メリケン粉、あられ、ビスケット等の卸)から粉一俵、砂糖一俵をもらって隣りへ分家したとあります。
創業の頃から今も販売している落雁、饅頭、こくせん、甘々棒を中心に製造販売していました。
特に落雁は、お祝い事には鯛・海老・昆布などの形をした落雁を、仏事には精進料理を形どった落雁を、その他、農業、蚕業に関わるお祝い事の落雁など、生活や季節の節目節目に必要なたいせつなお菓子として多くの需要がありました。このような時代背景もあり、末次郎は落雁の製造販売を中心に順調に仕事を広げていきました。
戦時中
しかし、戦時中から状況は一変。
落雁等の材料が入らなくなり店を続けることが困難になりました。末次郎は、止むを得ず店を閉め神岡鉱山に働き出しましたが、自分の生業である菓子作りに対する思いは強く、思案の末、昭和16年12月に兄の鶴巣豊吉と松葉製菓有限会社を創設します。しかし、この会社設立は一時的なものだったようで、戦後復興が進み、世の中が落ち着いた頃合いをみて、巻葉屋分隣堂を再開しました。
戦後高山の復興とともに落雁は再び生活に根ざしたお菓子として需要が増え、末次郎の菓子作りは軌道に乗って行きました
また、末次郎はアイディアマンでもあったようで、末次郎の発案である石器落雁(矢じりの形をした落雁)はお土産としてヒットしました。
二代目 川上高明
丁稚奉公
2代目の高明は末次郎の長男として昭和9年1月31日に誕生しました。高明は幼い頃から家業を継ぐとの想いで父の背中を見てきました。
高明は、父の店をただの菓子屋ではなくビジネス的にどのように大きくするかを考えていたようです。 そのためには商売を一から勉強する必要があると考え、菓子屋に修行に行くのではなく、全く異なる業界である化粧品卸会社(大阪)への丁稚奉公を選びます。高明が高校を卒業した18歳(昭和26年頃)の頃です。
当時の大阪は商業の中心地でしたから、高明が大阪商人魂を学ぶことは巻葉屋分隣堂の発展にとってとても意義あることだったのだと思います。
生菓子の製造
2年間の奉公を終えた高明は高山に帰郷し父末次郎と一緒に仕事し始めました。
高明の時代は落雁、特に寺社仏閣用の御紋菓子、お華束(けそく)の最盛期で、それだけも充分な売上げでしたが、高明は落雁と同じような主力となる菓子を常に考えていました。
昭和も30年代、40年代になるにつれ製造技術や保存方法が発達し生菓子の生産が可能になったきました。生菓子とは鯛、海老、鶴亀を形どった慶事用と、蓮、菊、精進ものを形どった仏事用の引き菓子のことです。
生菓子は色彩や形など菓子職人の技術と工夫次第で他店と差別化できる菓子です。「これからは慶仏用の菓子は落雁ではなく生菓子になるにちがいない」と高明は感じ、生菓子製造に力を入れ始めます。
高明が感じたとおり、生菓子の注文は急激に増えてきました。 高明のつくる生菓子はとても人気があり、巻葉屋分隣堂の新しい看板商品になっていきました。
飛騨高山の観光化
飛騨高山は、昭和40年代半ば頃から観光地として脚光を浴び始めました。これを機に巻葉屋分隣堂も変わっていきます。当時は、寺社仏閣用菓子・法事用饅頭が中心でとても忙しく新たな商品を考える暇などなかったようですが、高明は「これからの高山の発展を考えると巻葉屋分隣堂も観光用お菓子が必要となる」と考え、人気商品だった石器落雁の形を四角に変えて(現在の麦落雁:「和」と「匠」)箱入りにして売り出します。
この箱入り麦落雁はお土産としてヒット。 高明のアイディアによって、小さくて食べやすい形に生まれ変わった麦落雁は、再び巻葉屋分隣堂の看板商品として注目されるようになりました。
高明と高山祭
この頃から、巻葉屋分隣堂は「飛騨高山の発展のために」という理念に変わっていきます。業態も「受注生産だけ」から「店舗売り」の要素が少しずつ加わっていきます。
このことは、高明が「高山祭」をこよなく愛した人だったことも関係しています。 高明は「高山祭のために毎日の仕事をしているようなもの」と常々語っていたように祭への想いは誰もが認めるものでした。
高明の大きな功績として祭囃子の復興があります。途絶えていた生演奏の祭囃子を自分の屋台組だけにとどまらず他組のものもいくつか復活させました。
高山祭を愛するがゆえに高山の古くからのお菓子を大切に守る、そして未来に伝える。 高山祭と菓子づくりを通した高明の生き方は、巻葉屋分隣堂の発展に大きな影響を与えました。
三代目 川上敏彦
川上家に婿入り
現店主の敏彦は、高明の長女富子と昭和62年に結婚。川上家に婿養子として入りました。 巻葉屋分隣堂の味を守る後継者ですから、父高明の期待は大きく指導も厳しいものでした。
店の前を通った観光客によく、
「わー落雁だ、今時、落雁なんか食べないよね」
と言われたことも幾度とありました。
敏彦は「なにくそ!」と思いながらも、これが落雁の現実だと感じたことも事実でした。
「巻葉屋分隣堂の代名詞である落雁をより価値あるものにするにはどうしたらいいのか」 敏彦なりの思索が始まりました。
ある日、アイディアがひらめきます。 「うちの店に飾る落雁をつくろう!」
片付けてあった昔の木型をたくさん引っ張り出し、それを見た時にアイディアがひらめきます。今は使われなくなった木型で店に飾る落雁をつくろうとディスプレイ用に彩色した落雁に取り憑かれていきました。
敏彦は、高明のいない時にこっそり店で試作を重ねついに完成。 完成したものを高明に見せると「こんなもの落雁ではない」と一喝。 しかし、お客様には大好評。 敏彦がアイディアを出すたびに高明が叱ることはたくさんありましたが、敏彦の枠にとらわれない発想と新しいものを生み出そうとする熱心さは少しずつ高明の心を動かしていきます。
季節の生菓子
季節の生菓子もそのひとつです。 それは、栗よせから始まりました。
平成5年頃、「飛騨高山の栗よせ」をブランド化するキャンペーンがありました。 当時、栗よせは身内用に時々つくる程度で、商品として販売はしていませんでしたが、このキャンペーンを機に商品化することになりました。(末次郎の時代は商品としてあったので巻葉屋分隣堂のレシピがあった)
しかし、発売当初は1日1から2−3本しか売れなかったことも。 高山では、栗よせで有名な店が数件ある中でのスタートはなかなか厳しいものでした。
ある日、以前、栗よせを買いに来たお客様が再び来店。
「この前買った栗よせ、おいしかった。高山で人気だった廃業した〇〇さんの栗よせによく似た味」と。
このお客様がたくさんの人に広めていただいたこともあり、栗よせは、巻葉屋分隣堂代表的なお菓子になりました。
次々と新しい季節の生菓子を発売
初めてチャレンジした季節の生菓子。 栗よせの成功で、敏彦は「秋の商品をつくったのだから、春、夏、冬もやろう!」と考え、春は「よもぎ饅頭」、夏は「水ようかん」、冬は「薯蕷饅頭」を商品化。 敏彦ならではの枠にとらわれない発想で、分隣堂らしい「よもぎ饅頭」「水ようかん」「薯蕷饅頭」ができあがりました。
高明になんとか認められようとがんばってきた敏彦の仕事ぶりによって、巻葉屋分隣堂は店舗販売中心の店に切り替わりました。
新しく生まれ変わった巻葉屋分隣堂に未来を確信したのでしょうか。 すべてを敏彦に託し、平成16年に高明は永眠しました。
未来の巻葉屋分隣堂
末次郎、高明、敏彦と受け継がれ、時代の変遷とともに発展してきた巻葉屋分隣堂。 その意志を引き継ごうと敏彦の長男である浩佑が店を継ぐことを決意してくれました。今、浩佑は父敏彦のもとで日々修業に励んでいます。
これから浩佑なりに巻葉屋分隣堂の歴史と和菓子の素晴らしさをどんどん感じていくでしょう。 そして、末次郎、高明、敏彦に決して負けることのない店づくり、菓子づくりにチャレンジをしていきます。
伝統を守りながら、新しいことにチャレンジしていく巻葉屋分隣堂を今後ともご愛顧いただきますようお願いいたします。